過去の会報から再掲載しております。
掲載されている表現は、人名・役職・年代・執筆された状況を考慮し、当時のまま掲載しています。
随時更新していきます
信徒会館に真心ささぐ
御恩師会長先生のお慈悲により未来永劫まで伝えさせて頂く信徒会館のお話も、御先祖様を思う心の浅い私は、日々の生活のことにとらわれて、尊い資金にもかかわらず、わずか十口の申込みをしたばかりでした。ところが、さる5月4日身延山七面山参拝には…続きを読む
女の増上慢
私は、日本一のかかあ天下であり親不孝者でした。来る日も来る日も夫婦喧嘩に明け暮れ果ては二人の子どもと主人を捨て一か月も家出をした事もありました。主人や両親の苦労はどんなであったかと深く懴悔させて頂いています。私は何年か前に入会させて…続きを読む
心豊かな日々
病弱な主人と3才の長男、生後1年半の長女と親子4人僅かな生活扶助を唯一の支えとして苦しい日々を送ってまいりましたが、昭和27年7月妙智會に入会させて頂きました。信仰の嫌いだった主人も、夢に教えられ2年近く揉んだ土地明渡し問題の解決に主人の心…続きを読む
「一心」に勝る功徳なし
私は22才で結婚、24才の10月女児を出産いたしましたがその時の主人の喜ぶ様は並大抵ではありませんでした。私は心も安らぎ良き妻、優しい母として強く生き抜こうと思ったのも束の間、ある朝出かけた主人がお昼近くに仕事中の事故であの世の人となっ…続きを読む
常に喜びの心で
私は小さい時から何事も自分の思い通りに過ごし、他人のやる事は何一つ気に入らず兄嫁のやっている事にはいつも八つ当たりした愚か者です。そのような心掛けのまま結婚したため、いつも意見の相違から夫婦喧嘩をしては夫を凹ましかかあ天下でとおして…続きを読む
尊き力“決じょう”を
青年部の熱望によって建設の運びとなった信徒会館、一昨年秋から布施のご修行として特別会費のご順序を頂きました。私は何の目当もなく50万円位と思いましたが、実際にお金という段になると考えてしまい結局私の名で二十万円申込み、一万五千円だけ払…続きを読む
布施の功徳
私は終戦後満州から引き揚げて来て、ずっとここ(山形県鶴岡市湯野浜)に住み着いており、この法に入会したのは昭和27年頃だったと思います。それから10年余の間は朝夕のおつとめも、山形教会や支部、法座のご供養日にも「できる時にはやり、行かれる…続きを読む
思いがけない喜び二つ
6年前に兄嫁に勧められ入会したのですが、しばらくは会費だけの会員でした。そのうち、機関士の主人が羽超線列車脱線事故の十分前に、その現場を通過して来た事や、よちよち歩きの子どもが転んで大きなガラス窓に頭を突っ込みガラスはザクザクに割れ…続きを読む
布施の功徳 ②
財施の修行3か月前は、ちょうど大恩師様の23回忌法要でございました。どういう順序でございましょうか、その23回忌につきまして、布施の功徳のお話をさせていただくのでございます。私は横着者ですが、昨年23回忌法要の前に、ご本部から、布施の修行の…続きを読む
お慈悲
私の主人は優しく智的で太っ腹な人ですが、只悪い事には大酒飲みでした。私は気が小さくひがみ根性が強くて我儘な為、結婚後1年たたない内に主人の道楽が始まり15年間は毎夜2時頃帰ることが続いたので、私の体も段々衰弱して来ました。その間信仰…続きを読む
財施の功徳の大きさ
私は入会前は、毎日体の具合が悪くて、夢遊病者のようにブラブラしておりました。夜になりますと、先祖の夢を見まして、「どうして毎晩、こんな夢を見るのだろうか」と不思議に思って過ごしました。そのとき、亡くなりました原支部長さんにお導き…続きを読む
工場を持つまで
私の主人は応召兵で、八丈島に駐屯していましたが、終戦の年の暮、東京に帰ってきました。住む家もないので、古材を譲って頂いて、バラックを建て、六畳の広さの部屋に、三畳分だけムシロを敷いて、暮らしました。窓はありましたが、ガラスがないので…続きを読む