妙智會教団とは

1950年(昭和25年)、戦争の爪あとが残り、経済は不安定で、何よりも思想的混乱が世間を覆っている環境の中、宮本ミツ会主の「世界の柱となり、世の土台となる覚悟です」との大願をもって、妙智會は開教しました。

妙智會は、先祖供養を通していのちを尊ぶ心、思いやりの心、平和を願う心を涵養すると共に、忍善、懺悔、感謝の実践による人格完成を眼目としています。そしてひたすら平和と自由と平等のうえに、すべての人びとが幸せに暮らせる世の中をつくるため、「祈りと実行」を胸に、日々広宣流布に精進しています。

平和は人がつくるものであり、人は心が形づくるものであります。そしてその心を正しく育むのが妙智の教えです。

宮本孝平大恩師

宮本孝平大恩師は、1891年(明治24年)2月24日千葉県山武郡片貝村(現在の九十九里町)に生まれました。
1907年に上京し、逓信省に勤めながら通信講義録で独学にはげみ、兵役を終えた1913年(大正2年)、東京市の電気局に勤務。1918年には、隣村の石田ミツ(会主)と結婚しました。
しかしこの間、1915年には両親と妹ひとりを相次いで失い佛立講に入信。さらに1934年(昭和9年)には霊友会に入会し、1936年第7支部長に。また翌1937年には常務理事となり、妻ミツともども本部勤めとなりました。1945年11月14日に帰幽。5年後の1950年10月12日に妙智會教団は開教しましたが、大恩師が終生唱え行じた「忍善」の教えが妙智會の独自性として打ち出されるなど妙智會の精神的源泉と崇敬されています。
毎年11月には千葉聖地に全国の会員が参集し、1年の修行を振り返り、新たな年に向かってさらなる決じょうをする日として「大恩師法会」を営んでいます。

宮本ミツ会主

宮本ミツ会主は、1900年(明治33年)4月15日千葉県山武郡鳴浜村(現在の九十九里町)に生まれました。
1918年(大正7年)、18歳で隣村出身の宮本孝平(大恩師)と結婚。1934年(昭和9年)夫君孝平とともに霊友会に入会し、昼夜を問わずお経をあげ、導き、五穀断ち、水行など信仰一筋の生活に入りました。夫君孝平が帰幽した後の1950年に同会を離れ、妙智會教団を開教し、会長に就任しました。以来、常に布教の第一線に立ち、会員の教化育成に尽くし、「教えの慈母」「至上の導師」と会員から慕われました。
この間、1952年東京で開かれた第2回世界佛教徒会議代表歓迎国民大会では、日本代表として歓迎の辞を述べました。また1967年には新日本宗教団体連合会副理事長に就任し、平和のための宗教協力の推進に尽くしました。1984年3月28日帰幽。
毎年3月には、千葉聖地に全国の会員が集い、報恩感謝のまことをささげ、正法の広宣流布を誓う日として「会主法要」を営んでいます。

宮本丈靖大導師

宮本丈靖大導師は、1917年(大正6年)5月18日茨城県久慈郡大子町に生まれました。兵役の後、東京・下丸子の日本精工に勤務していた1945年(昭和20年)、大恩師、会主の長女愛子と結ばれ、宮本家に入りました。
1950年妙智會教団設立とともに理事、総務部長。1957年理事長に就任。1970年文化庁宗教法人審議会委員に就任(4期連続)。会主帰幽後、3年間の服喪を経て1987年に第2代会長に就任。
この間、新日本宗教団体連合会(新宗連)副理事長、世界宗教者平和会議日本委員会の常務理事などを歴任し、1982年国連軍縮特別総会に新宗連特使団名誉団長として参加しました。
また1990年(平成2年)には「ありがとう基金」を設立し総裁に就任。
2000年、日本に世界の諸宗教代表と子どもたちを招き、「子どものための宗教者ネットワーク」第1回フォーラム(東京)と「子ども未来会議」(千葉聖地)を主宰。さらに2002年5月には、アメリカ・ニューヨークで行われた「国連子ども特別総会」に出席し、宗教NGO(非政府組織)の代表として提言しました。2015年3月26日帰幽。